第51回青年経営者全国交流会 in 広島 特別報告 「ヒロシマからのメッセージ~佐々木禎子さんと6年竹組の仲間たち~」
- 開催日時:
- 2023/09/20(水)
報告者:川野 登美子 氏
(かわの和み 代表 広島同友会相談役(元代表理事))
平和公園にある「原爆の子の像」をご存じですか。公園の少し北側で、少女が折り鶴を掲げた像です。まるで未来に向けて大きく羽ばたく命を象徴しているかのように、力強く、精悍な感じがします。
原爆の子の像は、平和公園にある100を超える慰霊碑や像の中で唯一、全国の子どもたちの募金だけで建てられました。65年経った今、「平和のシンボル」として世界中から1000万羽以上の折鶴が寄せられるようになりました。
像のモデル、佐々木禎子さんは私のクラスメイトでした。2歳で被爆し、12歳の時に原爆症でこの世を去りました。像の建立のキッカケを作った私たちが当時どんな念いで募金活動に至ったか、そして、日本中の子どもたちの募金運動へと広がっていったのか、私の体験をお話いたします。
■6年竹組「団結の会」
戦後9年、私は広島市立幟町小学校に通っていました。クラスは6年竹組、その中に佐々木禎子さんがいました。私は、「禎ちゃん」と呼んでいました。
1月に入り、今まで一度も学校を休んだことがなかった禎ちゃんが突然、学校を休みました。先生は「佐々木は今日から入院することになった。小さい頃に原爆におうとる。それが原因らしい。友達が苦しんでいる時は一緒に苦しんでやろうじゃないか」と言われました。そして、毎日交代でお見舞いに行きました。
卒業の前には、私たちは会長を決め「団結の会」を作りました。そこで、小学校を卒業しても禎ちゃんのお見舞いを続けることを誓ったのです。
■何かしなければ
中学校生活にも慣れ、徐々にお見舞いに行く回数が減っていた、そんなある日、禎ちゃんは12歳の若さで永遠の眠りにつきました。
もっとお見舞いに行ってあげるべきだったと、後悔の念が押し寄せます。そんな時、先生が河本一郎さんという青年を私たちに紹介してくれました。河本さんは、「原爆で亡くなった子どもたちの慰霊碑を建てたらどうでしょうか。」と話されました。禎ちゃんのために何かしなければという強い念いがあったので、一も二もなく賛同しました。そこで、像を建てるための寄付を集めようということになりました。
数日後、全国中学校長会議が広島公会堂で開かれるということを聞き、寄付を呼び掛ける声明文を作りました。そして、校長会議の当日、公会堂から会議を済ませて出て来られる校長先生に、2000枚のビラを一枚残らず配りました。
校長会議から20日も経たないうちに、全国から寄付金がよせられてきました。
そうして、昭和31年には、募金活動に賛同した学校の代表約100名が参加し「広島平和を築く児童生徒の会」の結成に至りました。
■「原爆の子の像」除幕式
それから1年半後、昭和33年5月5日に、「原爆の子の像」が平和公園に建立されました。像に掛けられた白い布が静かに引かれ、5月の青空に美しい少女像が姿を現しました。私は、力いっぱい拍手をしました。3年間の苦労がついに実を結んだ瞬間でした。
■語り部
1995年、戦後50年という節目の年に広島で開催された「女性経営者全国交流会」での報告をきっかけに、私は語り部となり「禎ちゃんと6年竹組の仲間たち」のお話をしています。歴史として聞き流し、終わらせるのではなく、誰にでも起こりうる身近な出来事だったということを伝え、平和な世の中にするためにどんな小さな事でも自分に何ができるかを考えてもらうキッカケになることを願っています。
経営を発展させていくためには、「平和」がとても重要なことです。それは日本だけではありません。世界中が平和にならなければ実現できないのです。
最後に、原爆の子の像の台座に刻まれている碑文をお伝えして私のお話を終わりたいと思います。
これは、僕らの叫びです。
これは、私たちの、祈りです。
世界に、平和を築くための。
(記:事務局 中野)