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2021.06.24

「未来を変える会社・企業づくり ~ビジョンを掲げ、今こそ実践者へ!~]

報告者 ㈱ヴィ・クルー 代表取締役  佐藤 全 氏(宮城)

 当社は2006年に、父親が設立した会社の分社化として誕生しました。バスの車体整備・車体製造・部品の製造販売の三本柱に、最近は電気自動車(以下、EV)の開発が加わりました。
 私は社長就任後に、リーマンショックと東日本大震災を経験し、コロナは3回目の危機です。目の前を見れば大変ですが、こんな時だからこそビジョンを描く価値があると思っています。  

■10年ビジョンは大ボラ?    

 10年ビジョンを描くときは、身の丈を超えた夢を描くことが大切です。自社では、まず社員と現状を出し合い、その対極を書き出します。対極の状態を会社の理想とし、実現に向かって動くためです。
 私は10年ビジョンとは「大ボラ」だと思っています。大ボラは失笑されるくらいでいいのです。10年の内の五年が経った頃、大ボラは中ボラとなり、さらにその数年後、小ボラとなって実現まであと一歩!になっているかもしれません。
 当社ではビジョン作成にあたり、まず鈑金塗装の仕事を因数分解してみました。すると、鈑金工場にも関わらず、デザインや設計の仕事が出来る特殊性がわかりました。そして、その力を活かしてメーカーになった方がいい、と思うようになりました。鈑金の仕事は事故後に発生することが多く、仕事量の予測が困難です。それを脱却するためには提案型の会社にシフトすることが必要だと考えました。
 当社の10年ビジョンの第一章は、2005年からスタートしました。第一章の中には、化石燃料を使用しない乗物開発を掲げていましたが、なかなか実現が難しく、ビジョンの達成期限まであと一年となった年のことです。他の機関と共同開発したLED照明の部品が県で表彰を受け、大手企業や大学関係者の前で話す機会に恵まれました。そこで乗物の開発に苦労している事を話すと、東北大学から声をかけてもらいました。産学連携の開発の始まりです。このことから自社だけで出来ないビジョンでも、諦めずに早くから発信していけば、協力者が出てくる可能性があることを学びました。  

■昼間の月が教えてくれた

 ビジョンの第二章ではわが社がめざす、走れば走るほど地球を救う車を具体化していきます。キャッチフレーズは「日本で15番目の自動車メーカーをめざす」です。
 自社で業界の動向把握や分析を行った結果、これからは自動運転が増えると言う意見が出ました。自動運転でぶつからない車が増えると、鈑金塗装をしている自社は存続の危機です。最後の一台になるまで修理を続ける会社になるのか、時代の変化に対応してバスメーカーに舵を切るのか。私たちは後者を選びました。「エンジンではなくモーターで動くEVバスであれば、中小企業である自社でもバスメーカーになれるチャンスがある」。この発想が第二章につながっていきました。
 第2章のキャッチフレーズは非常に分かりやすいのですが、ある日、その目的と手段が入れ替わっていることに気づきます。
 共同開発を続けてきた東北大学の紹介で中国のEVバスメーカーに会い、2年前に工場見学を受入れました。一緒に松島観光へ行くと、景色ではなく、昼間の月を撮影しています。中国では大気汚染で夜にしか月が見えないから、と言うのです。私は軽いショックを覚えました。当社は走れば走るほど地球を救う車を造るのが目的だったのに、いつの間にか自動車メーカーになることが目的になっていました。大気汚染に悩む国々に自社の技術を提供することが本来の目的だと気づかされ、中国の企業とEVバスを開発していく決断をしました。
 2019年11月、共同開発で完成したEVバスの全国販売を始めました。販売だけでなくバス業界の課題も同時に解決したいと、部品の交換時期やトラブルの詳細を遠隔で把握できるシステムも開発しました。これにより国内で走行している自社のEVバスの状態が一目でわかるようになりました。
 また、東日本大震災を経験した私たちは、災害時に活躍できるEVバスへの思いを強く持っていました。そこで充電と走行だけでなく、災害時にはEVバスの電力を変電所に返せるバスを日本で初めて開発しました。いろんな地域で再生可能エネルギーの利用が進んでいますが、当社のバスはそこにも電気を返すことが可能です。現在は遠隔でも充電をコントロールできるシステムの開発を進めています。  

■どんな人でも育つ会社が…  

 自動車業界全般で人気が低迷していますが、このような状況の中でも人を採用し、育てていける会社にならないと生き残っていけません。
 しかし、新卒採用を25年も継続すると、面接をした社員が社風に合うかどうかで採用を判断するようになりました。その様子を見た私は、外国人研修生の採用を宣言しました。ところが、社内は猛反対です。
 外国人採用を決めたのは、単なる人手不足や海外展開のためではありません。社内で違いを認め合う心を育みたかったからです。父親の会社が経営再建中の時は、一癖も二癖もある人しか応募してきませんでした。殴り合いの喧嘩も日常茶飯事です。それでもみんなで関わって一人前の職人になり、リーダーになっていきました。当時は「うちの会社って、どんな人が来ても育つ会社だよね」と言い合っていました。その社員が今の会社で中核を担っている社員です。
 外国人採用については、しばらく社員とやり取りが続きましたが、実際に入社すると、みんな仲良く仕事をしています。この経験があったため、中国企業と仕事をする際も、社員はすんなりと受け入れることができました。
 現在、社内では責任や権限を階層ごとに渡した縦の組織にしています。社内がグループで動くことで他のグループにも注意を払うようになり、他のグループの残業が続いていたら手伝ったりするなど、社内の見えない壁がなくなっていきました。
 私は勤務時間中だけ、地域の若者が自社で働いてくれていると考えています。社員は仕事が終われば、地域の人間に戻ります。その若者が仕事しかできないとなれば、その仕事でしか地域で活躍の場がないのです。仕事以外でも活躍の場を作るのは会社の責任だと思い、自己成長プログラムの制度を作り、仕事や資格以外の勉強も推奨しています。社員の可能性を広げ、仕事以外でも当てにされるようになると、その社員は仕事も出来るようになりました。  

■地域を経営する  

 地元・白石市で条例をつくるきっかけになったのは、東日本大震災です。白石市のために何ができるのかを考えた時、まずは中小企業の立ち位置を明確にし、行政と一緒になって地域を経営していきたいと思いました。そこから条例づくりがスタートしました。
 条例制定をめざして、産業振興会議を設置することになり、私が会長を拝命しました。会議ではまず東北大学に地域分析をお願いしました。地域の現状把握です。ビジョンと同じ、現状の対極にあるものを実現していくためです。
 同時期に国の地方創生がスタートし、白石市でも総合計画を出す必要がありました。私が地元の生産物の六次産業化をテーマにした企画書を出すと、六・五億の補助金が出ました。実現に向けて動き出そうとしましたが、バス会社の経営者である私が食べ物を作れるわけがありません。そこで同友会の仲間に声をかけ、一般社団法人みのりを設立しました。その仲間と研究所、食品加工工場、レストランを運営し、地域活性化をめざしています。  

■夢は続くよ どこまでも

 ビジョンの第2章も7年目を迎え、当初の大ボラも小ボラになってきました。第1章のボディメーカーは達成、第二章の自動車メーカーまではあと一歩です。
 ビジョンの第3章では、エネルギーマネジメント会社になることを掲げました。実はEVバスが普及すればするほど、リチウムイオン電池の処理問題が出てきます。使用済の電池を再資源化できれば、固定買取が終了しても捨てることなく再利用することができます。地方の方が再生可能エネルギーに取り組んでおり、エネルギーの再生拠点にもなりたいと考えています。
 今、私が取り組んでいる結果は、3年後に出ます。現状は3年前に取り組んでいたことの成果です。中小企業は地域から逃げられません。その会社のビジョンは、地域の人に賛同してもらえるものであることが必要だと思うのです。