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2018.08.13

「福山学 第2講 幕末・明治の福山」福山支部地域内連携推進委員会

講師:備陽史探訪の会 会長 田口義之 氏

 福山学の第2講は、前回に引き続き福山の歴史、特に幕末から明治期にかけてを学びました。
 前回は福山城の築城までを学びましたが、その後の福山藩10万石は数奇な運命をたどります。最大の鍵は、水野氏に続いて藩主になった阿部氏にあります。阿部氏は徳川幕府では酒井家に続いて多くの老中を出した、譜代の名門。藩主はほとんど江戸暮らし(参勤交代の義務が免除されていた)。藩士の3分の2が江戸に詰め、残るは中・小身の者ばかり。膨大な藩費を補うために、過重な税をかけ、あるいは詐欺まがいのことを繰り返します。ついに藩全体を巻き込む全国的に有名な「天明一揆」がおこります。
 この時も当時の収税の中心人物を処罰することで切り抜けようとしますが、なんと一揆側に処罰された者がいないという、決着になります。田口先生は、「こうした大規模な一揆が農民に組織できたとは考えにくい。ひょっとすると、学者として名高い菅茶山が首謀者ではないか」と興味深い話をされていました。
 名君と呼ばれた阿部正弘は若干27歳で老中筆頭となり、安政の改革を進めます。正弘は「祖法」と呼ばれるそれまでの慣例を破り、誠之館を作って「仕進法」という成績による抜擢を進めました。この正弘が38歳で死亡後、阿部家は歴代藩主が若くして亡くなる事が続きますが、そんな折に幕末を迎えるのです。長州の攻撃に、ほとんど抵抗なしで開城するのです。

 明治になって旧福山藩は、数ヶ月だけ「福山県」になりますが、すぐに「深津県」に改名され、小田県に吸収され、岡山県に編入された後、広島県に編入されて今日に至ります。江戸幕府の西国の鎮衛・福山は、新政府に徹底して冷遇され、寂れていったのです。
 そんな福山が福山市になったのが大正5年。水野氏の作った水道は破損・汚濁し、深刻な伝染病を引き起こしたのです。そこで新たな水道を作る必要に迫られ、その費用を国に援助させるために「市」になることが必要だったのです。周辺の合併と町づくりが進められ、人口3万人を越えて、市として認められました。その際に作られた「佐波旧浄水場」は現在でも堅牢な姿をとどめています。
 福山の歴史をまとめると、古墳時代から中国地方の中心地であったと言うことです。それを支えたのが、豊かな農村地帯であり、瀬戸内海の中央である鞆港の存在です。西国の歴史は福山を中心に回っていたこと、福山抜きで日本の歴史が語れないことを確認した、歴史編でした。
 田口先生も「まず福山の歴史を正しく知り、誇りを取り戻すことが大事だ」と語っています。
 第3講からは市の課長級の皆さんから福山市の現在の姿を学びます。社員さんや会員外の経営者、一般の方も大歓迎です。ぜひご参加下さい。