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2022.12.21

第2分科会「未来へつなぐ!創業者の夢をのせた経営指針、命のバトン ~心笑(こころえ)の実践で地域ナンバーワン企業へ挑戦~」

報告者:(株)コアブリッジ 代表取締役 坂口 公彦 氏 (尾道支部・ひろしま経営指針塾 第2期生)

■私の営業の原点

 私は大阪生まれで特技はすぐに人と仲良くなれることです。中学1年生の時、家庭の事情で一人暮らしを始めました。朝は新聞配達、夜は厨房掃除等で家賃を払いました。
 週に何度か、同級生の友達の家で夕食をご馳走になっていて、おかわりを進められる度に、「もうお腹いっぱいやから」と嘘をついて帰っていました。
 ある日の帰り道、友達のお母さんが追いかけてきて、「ホンマはお腹いっぱいやないの、わかっとるで。でもな、その年で気を使うというのはすごいことなんやで」と握り飯を持たせてくれました。おかげでグレることなく成長することができました。
 中学校を卒業し、運よく知り合いの社長さんの紹介でホテルに就職。その後、上司の勧めでバーテンダーになりました。近所にはお笑いの劇場があり、芸人さん達が若くて話好きな私をよく可愛がってくれました。様子を見ていた芸人さんから「めっちゃすごいな。会話の間の取り方や人の気持ちを汲んで提案するとか、すごい人間になるぞ」と言われました。私のコミュニケーションの取り方はこの頃に身につけたものです。

■二つの運命の出会いと創業

 その後、今のクールな嫁と運命の出会いをし、結婚。ホテルを辞め、嫁の故郷である三原に移住しました。就職活動をして、運よく上場企業の営業職に採用されました。
 営業は未経験なのにどんどん仕事が取れました。元来寂しがり屋の私の営業スタイルは、地域密着、人を知ることから始まるバーテンダー時代の経験を活かしたものです。
 約1年半で全国3000人の営業の中で一位になりました。その後も1位が続き、アメリカの会社でも1年間営業をさせてもらいました。
 日本に帰り、後に共同創業者になる角さんと出会いました。角さんは設計建築課のトップで、トップセールスの私に興味を持ち、営業に同行。
 営業先を出る度に「お客さんが、みんな家族的で心から笑顔になっている。すごいよ!」と言われました。
 実は角さんは過去に経営経験があり、当時は営業力がなくてうまくいかず、私に興味を持たれたそうです。
 また大の音楽好きで、全国を飛び回る私の代わりに、クールな嫁と一緒に吹奏楽部の娘の発表を聴きに行ってくれていました。私にとっては、父親のような存在でした。
 ある時、「実は前の会社で防災推進事業がやりたかった。日本に防災推進事業を広めるために起業したい。あんたと」と言われ、冗談かと思いましたが本気でした。
 その頃の私は会社からも評価され、管理職になり、営業の第一線からははずれていました。独立したら、また大好きな営業ができるかな、防災推進事業にも関心があり、「角さんと一緒なら」というワクワク感が湧き出る一方、今の安定した生活を捨てていいのか迷い、「一年間考えさせて下さい」と言いました。
 もうすぐ一年という頃にクールな嫁に相談しました。当時47歳、糖尿もあり、「角さんとだし、今まで頑張ってきたんだし、お金じゃない。最後の人生、やったらいいんじゃない」と言われました。
 その回答を角さんに返して退職し、角さんが会長、私が社長で創業しました。私が社長と言っても、会社の経営は角さんが行い、営業は自分が一人で飛び回っていました。
 そんなある時、角さんから「いつになったら人を増やすんか」と言われました。防災推進事業を日本に広めるというだけでもワクワクし、居心地も良く、角さんと自分が食べていければいい、一営業マンとして満足しかけていました。どきっとしました。

■突然の別れ

 創業して半年も経たない頃です。体調が悪く病院に検査に行った角さんが帰ってきて「死刑宣告されたわ」と言うのです。末期の膵臓がんでした。号泣して、巻き込んですまなかったと謝られました。その後、毅然として「時間がない。入院したら毎日出社前に病院に寄ってくれるか」と言われました。それから毎朝角さんが伝えたいことを病室で聞きました。
 3ヶ月経たないうちに、角さんは話をするのも辛い状態になりました。ある夕方に「病院に寄ってくれ」と電話があり、病院に行くと、いつもの角さんがいました。差し出した手を握り締めて「そろそろ行くわ。夢を達成してくれ」と言われました。
 その後、病院から角さんが亡くなったと連絡がありました。葬儀を済ませて落ち着いた頃、角さんから女房が受け取った手紙を知りました。中には「自分が死んだら会社に行って坂口を支えてくれ」とありました。専業主婦だった女房が「明日から会社に行くから」と言ってくれました。
 また「あんたは大阪の人間だから地元の経営者仲間を作れ」とも言われていました。同友会のことも言われていて、新年互礼会に参加して、入会しました。
 参加した勉強会で、浮田さんの指針書を見せてもらい、経営指針書が必要なことを知りました。その浮田さんに指針塾への参加を勧められ、意を決して申し込みました。

■成文化に取り組んで

 指針塾の懇親会で、丸山先生に「私防災推進事業をしています。防災シェルター売っています」と熱っぽく語ったところ、「あ、そうなの。何機売ったの?」と聞かれ言葉に詰まりました。まだ1機も売っていませんでした。
 指針塾に参加して、思いはあるが、数字や科学的な裏付けは苦手なのがよくわかりました。また、こんな時、角さんだったらどうするかな、と頭の中で角さんと対話していました。
 指針塾では、会社で発表することが大事だと教わります。早速、会社に帰って、経営指針を発表しました。
ここで事件が起こります。いつもクールな嫁が号泣したのです。理由を聞くと、「安心した」とのこと。私が社長としてやっていけるのか心配だったようです。
 そして数字を隠せなくなりました。以前は資金繰りなど一人で抱えていましたが、指針を発表したことで、社内で赤裸々になりました。社員にとっても会社の数字が他人事ではなくなりました。
 コスト削減や原価率に対する意識が高まり、コロナ禍を逆手に取った新商品の開発、エコアクション21にも取り組みました。指針書と認証を受けたことを銀行に報告に行くと「協力しましょう」と融資にもつながりました。
 その後、昨年度は飛谷君も指針塾に参加したおかげで、粗利も売上も原価率の低い商品の割合も伸びています。

■3つ目の運命の出会い

 角会長が亡くなり、給与計算もできないので、社労士の先生にお願いしていました。その先生からぜひ会ってみて、と紹介されたのが飛谷君です。営業が好きで、気が利く彼に感じるものがあり採用を決めました。素直に私の営業方法、お客様の取材をする形を学び、あっという間に売上をあげて、営業先の島では人気者になっています。
 彼にも学んでほしくて、後継者として同友会に入会するか尋ねると、二つ返事で入会すると言ってくれました。指針塾にも参加して彼なりに成文化してもらいました。
 彼の指針書の1ページ目を見て、私は泣きました。そこには「地域の各家庭のコンシェルジュとしてあらゆるお困りごとを解決し、災害から暮らしと笑顔を守りぬく」とまとめられていました。それは私の地域密着と角さんの思いそのものでした。飛谷君の指針書を通してもう一度角さんに会えた気がしました。

■飛谷さんへの質問

Q.初めて社長の経営指針発表を聞いて
A.会社の数字も書いてあり、会社のことを自分事として考えられるようになりました。
Q.どんな思いで指針書をまとめましたか?
A.社長からよく話を聞いていた角会長の思いを軸に、社長の思いが伝わるように、僕がかみ砕いてわかりやすくなるようにまとめました。社長の思いに論理性、科学性を足した感じです(笑)。
Q.自分で経営指針を作成して作成前と作成後で何が変わりましたか?
A.さらに会社の事が自分事になったこと、この思いを自分がわかりやすく伝えていかないといけないと思いました。

■指針は思いをつなぐバトン

 飛谷君に指針書をつくってもらったことで、より会社の10年ビジョンが明確になりました。角会長の思い、私の思い、飛谷君の思いが、指針書でつながりました。ビジョンや理念は、私が死んでも生き続けます。
 そのバトンをつなぐことは経営者の使命である。必ず会社、社員に対しての愛情になると思います。
 最後にこれからのコアブリッジの姿を会社パンフレットに掲載していますので紹介して終わりにしたいと思います。

■会社概要
設立:2017年10月5日
資本金:100万円
年商:1億5000万円
社員数:6名
事業内容:建築工事一式・耐震シェルター・遮熱塗装ガイナ工事・白アリ防除・営業コンサルタント
URL:https://www.corebridge-onomichi.com/

(文責 事務局 青芝)