創業一五〇年の老舗精肉問屋菊貞の経営のバトンを受け取って 広島中支部中③④地区会11月例会
報告者:㈱菊貞 代表取締役 菊崎伊久江 氏
■会社を継ぐのが嫌だった
菊貞は創業150年。1868年に菊崎啓次郎(6代前のご先祖様)が活牛馬問屋を始めたのがきっかけと聞いています。1975年に祖父菊崎貞が会社を設立。以来福島町で精肉問屋を営んでいます。
仕事は、①食肉市場で牛や豚の枝肉を購入②会社で枝肉を加工③受注を受け④商品を配送することです。
主な納品先は精肉店。30年前は何百件もあった取引先は大型店の進出や後継者不足により百件を切っています。
祖父母から父母へと繋がれていく㈱菊貞というバトン。しかし幼い頃より「30人の社員がおったら100人の家族の生活がかかっとるんで」と語る父の言葉に社長とは責任が重い大変な仕事だと恐れていた私は会社を継ぐのが嫌で、一時は大阪で働いていました。結局地元に戻り、外での経験から自分なりに成長したつもりでしたが、肉のことなど何もわからず、出来ることが無いと打ちのめされました。父はアドバイスをくれましたが、聞く耳を持ちませんでした。そんな日々が続き、父が60代になっても明確な後継者はいませんでした。
社長として生真面目な父と根っからの商売人の母。菊貞のカリスマ的存在の祖父母。仕事の話が飛び交う家が私は大嫌いでした。そんな私が去年、社長になりました。
■出来ることをやる
我が社に同友会への誘いがありました。父は体を悪くして会社の先が見えない。せめて勉強くらいはしようと思っていた時、同友会で女性部会に出合いました。「経営指針」や「成文化」の意味もわからない恥ずかしい状態でも、女性部会でなら頑張れると思い勉強会にも参加しました。
勉強会で経営指針を書こうとしても書けず、数字を初めて意識し、会社の会計を見て愕然としました。そのとき手にしたのが会社の診断書たる企業変革支援プログラムです。自社評価は最低でした。ですが、目に留まったのは「人を生かす経営」という項目。それくらいはできるかもと実践します。社員との面談や得意先の挨拶回りなど色々なことに取り組みました。また、赤字の原因だったどんぶり勘定も改めました。
■社長になる覚悟
私は結婚してから夫の姓に変えました。しかし一昨年の冬に「菊貞という会社名は菊崎伊久江の名で継ぐ」と宣言し、また名前を変えました。
小さいころ、精肉問屋の娘だったために「お前は汚い、臭い」と差別を受けました。母は「人は差別をするものでもされるものでもない」と私を育ててくれました。菊貞は戦後の貧しい時代に読み書きができなくても一生懸命仕事をしてきた職人が働いてきました。私が社長にならなければ皆バラバラになってしまう。それで私は幸せか考えました。
一昨年のある日、父が「明日にでも社長交代したいくらい体調が悪い」と言いました。その言葉を聞いた時、経営指針制作時に気付いた会社、職人、そして家族への誇りのために、社長として会社を変えていこうと覚悟を決めた自分がいました。
■伝統を守り新しい事に挑戦
菊貞には決して変えてはいけないことがあります。それは社員の誇りです。そして差別される痛みを知るからこそ、お互いを一人の人間として受け入れる文化です。
しかし変えるべきところは変えていきます。商品をパッケージ化して数字を管理、1人3役可能な環境づくり、HPによる自社の周知、部署間のボーダーレス化、新卒採用。そして10年後には新社長選びを始め、20年後に引退を考えています。また、精肉店が減っているので、卸問屋の強みを活かしつつ何ができるか新たな道を模索します。
■自分が会社を変えていく
私は親と同じ苦労を味わわなければ親以上になれないと思っていました。しかし、親と私では環境も個性も違います。そう考えてから親は親、自分は自分だと思うようになりました。 社員さんの良いところを見つけて能力を伸ばしていき、会社の決まりはしっかりと守る。そんな社長を目指します。