第6分科会 地域に内在する起業家精神と自治体産業政策 ~島根県海士町の事例から学ぶ
企業誘致の失敗体験
私は大学を卒業後、尼崎市役所に23年間勤務しました。最後は都市総合計画をつくる仕事を担当し、企業誘致の仕事を手がけました。大手家電メーカーを尼崎市に誘致、6年間の総投資額は5千5百億円におよぶ巨大なプロジェクトで、事業所税や都市計画税などその1%が市の収入になります。要する許認可は約2百で、それを国、県、市で分担して進めるというものでした。
結果としてそのプラズマテレビは売れず、メーカーは撤退、私も転職のため市役所を辞めることになりました。今、工場の跡地は物流センターとなりましたが、行政と企業が相談しながらビッグプロジェクトを前に進めるというこの経験は、皮肉にも尼崎市の中小企業政策を格段に向上させる契機となりました。
小さな経済づくり
市は一時的に潤いましたが、大企業が去り、製造出荷額などの数字は悪化します。でも、今は戻ってきており、もともとの中小企業が頑張っていただいていることの証拠になっています。
学生時代に学んだ大阪市立大学の宮本憲一先生は、地域開発は「内発的発展論」でいくことを提唱していました。それは、外部の企業、特に大企業に依存せず、住民自らの創意工夫と努力によって産業を振興していくこと、つまり、地域の中小企業を育んでいくことが大切だと指摘しておられました。
その後、市役所で企業誘致の仕事をしていたころ、京都大学の岡田知弘先生から「企業誘致で大企業に頼る地域経済づくりはいかがなものか」との指摘を受けたのを覚えています。市役所をやめるころ、尼崎市の地域経済について、小さな経済づくりをイメージするようになりました。それは、様々な業種・業態の中小企業が活発に活動する職住近接の街づくりのイメージで、現在の研究テーマにつながっています。
地方創生と仕事づくり
今、大きく時代が変わろうとしているなと思います。その1つが政府のすすめる「まち・ひと・しごと創生総合戦略」です。人口減少と地域経済縮小の克服が問題意識にあり、「しごと」が「ひと」を呼び、「ひと」が「しごと」を呼び込む好循環を確立し、その好循環を支える「まち」に活力を取り戻すことをねらったものです。私は中でも、仕事づくりが政策の柱で、起業家を生み出していく教育に重点がおかれているように思います。
いろいろな地方都市に行っていますが、創業率の低さがどこでも問題になっています。尼崎地域産業活性化機構の調査によれば、創業者の事業への思いやきっかけは、ビジネス志向より社会的志向の強い結果が出ています。コミュニティビジネスとかマイクロビジネスなどで構成されるこのソーシャルイノベーションの高まりが創業率をアップする可能性を示しており、注目しています。
地方の産業政策はその自治体が主体的に取り組む
市役所で市長秘書をしていたころ、政策の勉強がしたくなり、37歳で神戸大学の大学院に派遣され、1年間学びます。ここで出会ったのが「地域産業政策」という本でした。元来、産業政策は国が行うものですが、地方自治体が主体となって進める産業政策が地域産業政策だと書かれてあり、ストンと胸に落ちました。これが研究のベースになったのですが、私は最近「これからの自治体産業政策」という本を書き、次のように自治体産業政策を定義しました。「産業政策に中小企業政策の分類はせず、自治体の産業振興部局やそこが所管する外郭団体、あるいはそれらが支出する補助金、委託金により取り組まれる政策、および財政支出は伴わないが、政策の趣旨に賛同する経済団体や地域企業などと連携する政策のことをいう」と。
7年前、工業集積研究会(植田浩史氏)が自治体に地域産業政策のアンケート(591回収)をとりました。五年間の重点施策を聞いているのですが、回答のトップは「企業誘致」(約70%)、2番目に「融資と信用保証」(約46%)、3番目は、本来ここに力を入れないといけないと思うのですが、「地場産業支援」(27%)となっています。多くの自治体で積極的に企業立地施策が行われていますが、これはこの国にとって正しいのでしょうか。
尼崎市にて大型投資の企業誘致をしながら、地域経済は一時的にはマイナスとなった私の反省を込めて、地域の持つ資源を再評価し、地域にとって必要な結果を生む政策にしなければいけないと提起させていただきます。
海士町の事例
そこで、地方創生の1つのモデルとして、島根県の海士町の事例を紹介します。
島根県の海士町は合併を選択しなかった人口2300人の離島で、5人に1人が65歳以上です。経済は公共事業によって支えられてきましたが限界を迎えます。町長や議会の英断で役場を改革し、地場産業の活性化に取り組み、中小企業の皆さんは東京へカキや牛肉など、地場の商品を売り込みます。Iターンにも力を入れ、5年間で330人が定住、若い優秀な人材を迎え入れます。大学進学のための公営の塾を開設し、島外からの留学生「島留学」を積極的にすすめ、有名大学にも進学する人たちも出ています。
03年度の「海士町自立促進プラン」では、「守り」と「攻め」を自立の政策として打ち出しました。「守り」とは、行革で財政をやりくりすること。町長や職員の給与カット、議員の報酬カットで約2億円を生み出し、そのお金を子育て支援に振り向けました。日本一給料の安い公務員のフレーズは、各種補助金の返上やバス料金の値上げの賛同につながりました。
「攻め」とは、島に新たな産業を創り、雇用の場を生み出し、人を増やし、外貨を獲得して、島を活性化する、産業振興策の展開です。役場に地産地商課を設置、「商」には外に打って出ようとの意気込みが込められています。海士町の産業振興は「交流」から始まります。最初に、移住とか定住とかいうと、若い人には重たいのです。海士町に移住した若い人にインタビューすると「ここでは何か出来る気がする」との答えが返ります。色々なネットワークがあるからそう感じるのでしょうが、「3年頑張りたい」という答えが最も多いようです。
人に注目
海士町では人に着目しています。公募で事業がOKになった起業家に町は100%補助金を出します。しかし「どんなことをしたいのか」を何回もヒアリングしたうえでOKするのです。町が特にこだわるのは「その仕事で何人の雇用を生むのか」です。島の食文化を商品化した「島じゃ常識!サザエカレー(年間3万食)、海士の漁師の食卓をそのまま届ける「CASシステム」(食味を落とさない冷凍技術)の活用、島生れの島育ちという独自ブランドを確立した「隠岐牛」などなど、ざっと100人の雇用を生んでいます。
高校存続の危機がありました。生徒数の減少です。県教委も小規模校は統廃合するという方針でした。地元の住民と町教委が話し合い、地域で新たな生業・継業を創りだせる人財を育てる、つまり人の自給自足をしようと決意します。高校の魅力化を計画し、島留学制度をつくります。そして、高校と連携した学習支援の施設として、10年に公営の塾「隠岐国学習センター」を2億円かけてつくります。建物は古民家を改修するのですが、愛着が生まれるよう島の生徒たちに木材運びを手伝わせたそうです。
海士町から学ぶこと
海士町の取組みは、地域の「幸福」を念頭にした地域経済活性化の新たなモデルとなるでしょう。しかし、海士町モデルは確かに参考になりますが、模倣はダメで、その地域の独自性をだしていくことが大切だと思います。
自分たちの地域は自ら守り、地域の未来は自ら築くという気構えに、ビジネスの根源があるように思います。地域活性化の源は交流にあります。異質なものを取り入れ、多様性を受け入れると、お互いに変化し成長が望めます。若者・よそ者・元気者が連携すれば、地域は動き、新たなビジネスの創出につながります。活性化とは意識の変革、惰性の仕組みを変えていくことです。
ソーシャルイノベーションの原動力は人です。その人が活動するには人を確保するだけの経済活動を回していかなくてはなりません。小さな経済を1つひとつ作り上げ、積み重ねることで、その地域に見合う経済の基礎づくりが可能になるように思います。その主軸としての中小企業の役割は深いと言えます。