第4分科会「早く行きたいなら一人で行きなさい! 遠くへ行きたいなら皆で行きなさい!! ~共に育ち、共に活き、共に発展の実践~」
報告者 ㈱木村工業 代表取締役 木村 晃一 氏(東京同友会副代表理事、経営労働委員長)
●経営理念は「共に育つ」
わが社は、一九六四年に私の父が創業しました。私は二代目で、一〇年前に継ぎました。業種は、土木建設業ですが、弊社では事業定義を「労働力創出業」として、上下水道、土木、公園管理、警備、教習業務等を行っており、社員は七七名(内パート二〇名)です。二四時間・三六五日緊急対応でき、生活に必要な公共インフラの維持管理が得意な会社です。
経営理念は、「『共に育ち、共に活き、共に発展』安全を会社の安心に広げ、未来を創造してゆく木村工業」です。奇しくも分科会のテーマであるアフリカのことわざと同じ意味があります。
事業ライフサイクルでいうと、①導入期、②成長期、③成熟期、そして現在、④衰退期を迎えており、次の段階に上がろうと取り組んでいるところです。
●父が経営理念の導入期
導入期は、父の時代です。創業の頃でひたすら売上を伸ばすことを考えた時期でした。
父は、一九六〇年に数人の仲間と共に青森から上京し、ガス工事の仕事を始めました。時代は高度成長期で東京オリンピックも間近の頃。売上はどんどん伸びていきました。
その頃は経営理念などなく、父の存在が経営理念でした。当時、私は高校生でしたが、そんな父に反発して家を出ました。
一九八八年、二五歳になった私は、妻との結婚を目前にして家に戻りました。わが社の様子は、救急車やパトカーが来たり、管材料がなくなったり、公私混同は当たり前の状態でした。仕事は実績があったのでいくらでもありました。資金は銀行がどんどん貸してくれました。
しかし、バブルが崩壊。仕事量はあるものの、落札金額が下がり利益は激減しました。借入金を返すために公共工事を受注し前払金で返済するという自転車操業に陥りました。債務超過ではないものの、債務が膨れ上がっていました。
私はというと、二〇年間、現場仕事を続けました。親子の関係に依存して経営に近づきませんでした。現場では、キャリア二〇年の社長の息子に誰も何も言えなくなっていました。社員を見下し、怒鳴って、聞く耳を持ちませんでした。
●自立へ向かう成長期
二〇〇七年、「お父さんでは融資は考えられない」と言われ社長交代しました。
社員に会社の状況を伝えたくても術がありません。分からないなりに計算すると毎年の返済額は一億一千万円になることが分かりました。夜も眠れなくなりました。仕事があって黒字でも、資金がなければ会社は成り立たないことを学びました。その年は本社ビルを売却し、分散していた社屋を一箇所に集めることでしのぎました。苦手なことから逃げていた私は、借金を返すために、手当りしだいに勉強するしかありませんでした。
最初にしたことは、利益率の低い大規模工事をやめ、利益率の高い小規模工事への転換でした。試行錯誤する私に対する社員の反応は「若社長になったら本社は売るし、仕事は小さくなるし、俺たち苦しくなっている」でした。このころ同友会に出会い、面談や、社内会議も始めましたが、何一つ上手くいきませんでした。私だけ損している気持ちでした。そんなときに同友会の先輩に、「行き当たりばったりじゃだめだ」と言われて、経営指針成文化セミナーを受けることになりました。
経営指針作成の手引きの経営理念の項目に、「何のために経営をしているのか」について書く欄があります。私が最初に書いた文章は「人間としての幸福を知らしめ広げる」でした。強制的な雰囲気がありました(笑)。現在は「社員と夢を共有し、幸福な人生を共に歩む為」になりました。当時、強制的な言葉は他にも使っていましたが、上手くいかないのは、父のせい、社員のせいだと思っていた現れでした。そのことを指摘されたことを憶えています。
理念・方針・計画ができ、社員に現状を説明しました。まず、これまでの姿勢を謝り、全員で目標を達成して利益を分かち合うことを約束しました。
順調に思えた矢先、「みんなでやっていく」という経営理念に反発する社員が現れました。売上の二五%を支える社員でしたが、経営理念が考え方に合わなかったようです。チームをつくり「一緒にやろう」と一年間言い続けました。議論は平行線のまま、最後は、残った社員たちが「あとは俺たちがやります」と伝え、彼は退社しました。
二〇〇八年、全社をあげて減った売上の半分を確保し、減収増益で決算できました。初めてV(決算)賞与を出すことができました。わが社も社員をパートナーとする経営に移行できると思えた瞬間でした。
苦しい事業承継でしたが、父の経営から自立できました。「共に育つ」環境を社内に育てていくことこそ、存続し続ける会社になるため一歩だと思いました。
●人を育てることを始めた成熟期
二〇一〇年、次の事業承継を苦しいものにしないために、私と社員、共に自立への取り組みが始まりました。
年二回の決起大会(経営指針発表会)では、わが社が大事にしている理念教育と、技能教育について確かめます。
理念教育ですが、わが社は年四回行う個人面談の中で「チャレンジシート」というものを使い、①経営理念から部門スローガン。②部門スローガンから個人スローガン。③個人スローガンから目標。④目標から日々の行動。⑤日々の行動が経営理念の共有になる、ということを考えてもらいます。経営理念の実践=評価になる仕組みです。目標設定に迷わないように、階層ごとに習得すべき具体的な内容を示した「やりがいある育成プログラム」というものを作っています。
何もできていなかったわが社が、毎朝の朝礼、定例の会議、朝の地域清掃ができるようになりました。理念教育こそ自立への一歩だと思っています。
技能教育は、わが社の経営理念が「共に育つ」ですから、人を育てることのできる人を育てよう、ということで取り組んでいます。
採用活動は、七年前から新卒採用を始めました。
インターンシップには、毎年一〇名~二〇名の高校生や大学生が来てくれます。昨年からは障害者の方の受け入れも始めました。
入社後、年四八日間。計二八八時間の新人技能研修を実施しています。効果は新人の定着や、講師を務めるエース級の社員が抜けても現場が回ることです。
最初のころは、社員から「教えて仕事ができるようになるのか。それより辞めない人を連れてきて」と言われていました。その度に「辞めない人を育てよう」と技能研修を続けています。今では好評です。技能研修は新人に、先輩が持つマニュアルにない暗黙知を伝える機会です。それが評価になることが定着してきています。
経験だけで教えるわけではなく、東京都の「職業訓練指導員」の資格を得て技能研修に取り組んでいます。二〇一三年に取得しましたが、五年の実績を経て職業訓練校の認定が受けられるので、めざしているところです。
●衰退期。未来創造主義へ!
二〇一五年、全てが上手くっているわけではありませんでした。忍びよる衰退を、第二成長期に変えようと取り組みを始めました。社員数の推移を見て、二〇一二~二〇一三年に入社三年目の社員が相次いで退職していることに気がついたからです。
該当年度の社員にグループ面談と個人面談で「わが社に足りないこと」を聞くと、先輩との関係、休日、時間外労働など「働き方の問題」が出てきました。
解決に向け、一泊合宿を行いました。すると三年目以上の社員から「将来が描けない」「幹部になりたくない」と言われました。
この意見を受け、決起大会で「未来予測面談」と「ビジョンを持って労働環境を改善する」ことを約束しました。
労働環境の改善はチームをつくり取り組んでいます。ゴールを設定し、期日を決めて一つ一つクリアしています。時間はかかりますが、私は背中を押すだけで口出しせず、社員が考えながら進めることを大事にしています。最終的には完全週休二日の確立をめざしています。
わが社の「共に育つ」はまだまだ続きます。まずは、私が良い経営者になります。同友会の三つの目的は経営者の限りない挑戦だと思っています。