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2016.12.27

【同友ひろしま12月号】経営フォーラム2016特集号 基調講演〈公開対談〉変革と継承 ~「労使見解」の起草と「人を生かす経営」実践への道~

 2016-12 (2) 2016-12 (3)  

左:田山 謙堂 氏(中同協顧問 ㈱千代田エネルギー 相談役 東京同友会名誉会員)
右:国吉 昌晴 氏(中同協顧問)

◆労使見解の論議

国吉‥同友会の前身となる全日本中小工業協議会(全中協)が、戦後の一九四七年に、日本経済の主人公は中小企業、経済は平和の中で、官僚統制に反対し自主・自立で中小企業経営と運動を進める、従業員を大切にして共に中小企業の繁栄を図るというスローガンを掲げて結成されました。
 その後、鮎川義介氏(日産コンチェルン総帥)が設立した日本中小企業政治連盟に全中協の多くのメンバーが流れましたが、私たちの先輩は、五七年、日本中小企業家同友会(現在の東京同友会)を立ち上げ、翌年大阪、六二年愛知、六三年福岡、六五年神奈川と同友会が設立され、現在では四七都道府県の全国組織になりました。
田山‥全中協時代から労使問題については、従業員の人格を尊重して、労使が協力して生産の推進と生活の安定を確立するという見解をもっていました。四七年に労働基準法が制定されました。それまでの親方日の丸的な家族経営から、これからは近代的な労使関係をつくらなければ企業の発展はあり得ないと考え、同友会の運動が始まりました。

◆同友会理念

国吉‥私たちの先輩は、労使問題は中小企業経営の核である、近代的な信頼関係をどう構築していくかを学び、経験を交流していこうとしました。全国組織結成の気運が高まり、六九年に、五同友会・二準備会の全国会員六四〇名で中小企業家同友会全国協議会(中同協)が発足しました。
 当時、法律に依らず中小企業家自身の力で自主的かつ民主的に運営する、現在の「自主・民主・連帯」の基本理念はありましたが、同友会運動の目的は成文化されていませんでした。四年間の議論の後、七三年全国総会で「三つの目的」が制定されました。広島同友会が設立されたのは同年の秋です。そして、七五年には「中小企業における労使関係の見解(労使見解)」が提示されました。
田山‥当時、東京同友会の会員百名の六割に労働組合がありました。大企業の春闘の後、中小企業での交渉が始まります。労働組合の組織の力で資本家に対抗して賃上げや労働条件を獲得するという、総資本対総労働という考え方が基本にありました。
 中小企業にも産業別の労働組合ができていました。組合の上部団体の考えは大企業に影響されており、実際の労使の交渉の場面では、経営者側は企業の利益や安定を考えて賃上げを回答しますが、平均水準以上でなければ妥結に至りません。
 どうしたら労使相互の話し合いで円滑にできるものか、会員の間で議論になりました。しばらくすると従業員への不満ばかりが出てくるようになりました。しかし、企業によっては円滑に話し合い、業績も上げている事例が多く出てきました。次第に労働組合があっても経営は発展できるという考え方が広まるようになりました。
 その中で、経営者の姿勢はどうなのかという議論が出てきました。労使が信頼し合い、従業員がイキイキ働ける場をつくることは経営者の仕事であるという労使見解の「経営者の責任」にたどり着いたのです。労使見解は会員の体験から整理したものです。

◆経営指針の作成

国吉‥労使見解にあるように、経営を維持・発展させるためには明確な指針をつくることが必要であることから、七七年全国総会で「経営指針」が提案されました。
田山‥当時、中同協の事務局から愛知の一部の会員が熱心に議論していた経営指針を運動方針に取り入れてはどうかと提起がありました。
 幹事長の私が経営指針の重要性を檀上で語りますが、自分の会社にはないのです。東京同友会に経営指針を教えてくれる人がいなかったので、外部の経営計画コンサルタントのセミナーに通いながら、自分なりに自社の経営理念・方針を作り上げました。
 経営指針を出す前年に労働組合ができました。従業員との対話の中で理念を考えました。一つは、お客様の信頼を得ないと企業の発展はない。二つ目は働きがいのある(①給与・賞与・労働条件が業界の平均以上、②従業員の個性を生かし能力を発揮できる仕組みをつくる、③未来に希望がある)会社。そして、目標を掲げ限りなく挑戦する、という三つの理念を作りました。
 この理念を実現する計画をつくるには労使で現状認識を一致させることが重要です。会議で会社の良いところ悪いところ、どうすれば良くなるのか意見を聞かせてほしいと言いました。しかし皆、下を向いて意見はでてきません。
 あるとき泊まり込みの会議をしました。会議が長引き、一升瓶を囲んで皆で一杯やることになりした。すると、「うちの会社は技術が悪い。無断で遅刻・欠勤をする。労働意欲がなくなる。それを許している社長が悪い」と言うのです。社長の私が一〇時出勤でしたので、自らを律してどんなことがあろうと九時の出勤に遅れないようにしました。
 「社長は目標を掲げるが、実現できないと、すぐ次の目標を掲げる。次々と目標を掲げるので、どうしたらいいか分からない」、「目標は必ず達成するという気概が会社にない」、「会社は総括が下手。成功・失敗の総括していない」という意見も出てきました。
 第一回目の経営計画は、皆の希望通り、各営業所の一年間の総括と決意表明を入れたものとなりました。しかし、なかなか実績があがりません。
 業界内で優れた会社から話を聞こうと皆で群馬県にある会社に行きました。人口三万人の小さな商圏ですが、実績を上げています。そこの専務は、「三万人の中でも最高のサービスと技術力、清潔な店づくりをすることで商圏は広がる」と言うのです。
 他社の考えを取り入れることで、従業員の意識が変わりました。その翌年から段々業績が良くなってきました。二・三年すると目標を達成するのが当たり前になってきました。賃金・賞与を上げて、利益もでるようになり、会社は大きく変わりました。
国吉‥理念・方針・計画を経営指針としてまとめて提起したのは同友会が初めてです。振り返ると、七〇年代は大変な時代でした。後の同友会運動の方向が決まった時代です。高度成長を遂げてきましたが、国際的にはオイルショックの波が押し寄せ、日本は低成長時代に入りました。そこで経営を転換しなければならないという大きな変化の波の中で、三つの目的、労使関係のあり方、経営指針の三つの柱を打ち立てました。
田山‥オイルショックの翌年、学生時代の友人だった専務と幹部の辞職が引き金となり、従業員の私への不満が労働組合の結成になりました。ガソリンスタンドで組合ができたのは自社が初めてです。小さな企業で労使がいがみ合えば会社がダメになります。労働者の基本的権利は認め、従業員ととことん話し合いました。
 月八〇~一〇〇時間の残業があり、従業員に不満がありました。残業時間の削減を試み、週休二日制を月二回から取り入れました。業界で週休二日制の会社はどこもありませんでした。従業員は生産性を下げないことを約束してくれました。従業員は喜び労働意欲もあがりました。
 従業員の悩みを一つひとつ解決していくことで、次第に労使関係が良くなってきました。彼らの私への見方が変わり、誠意ある社長と認められるようになりました。

◆人を生かす経営の結実

国吉‥各地で経営指針作成活動が定着するまでに九〇年代位までかかりました。かつ、経営指針のベースに労使見解があることが定着するまで、やはり九〇年代までかかりました。
 現在、経営労働、共同求人、社員教育、障害者問題の四委員会が人を生かす経営推進協議会として、より強固な企業づくりを展望するまで発展してきています。
田山‥企業の発展はどれだけ従業員が育つかだと思います。最初は同友会の教育活動に送り出していましたが、今は自社の教育プログラムを構築しています。細かく目配りして育てるシステムを各社でいかに構築するかが大切です。
国吉‥人間が尊重される企業づくり、お客様・地域からあてにされる企業づくりを進めている同友会で中小企業の地位の向上や環境改善を実現していただきたいと思います。
田山‥会に入会当時、中小企業の要望に官庁は対応してくれませんでした。〇一年の金融アセスメント法制定運動から私たちの声が届くようになりました。中小企業の声が届くには会員の数が必要だと実感しています。