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2016.04.27

4.第4回東日本大震災シンポジウム 「現在進行形」の被災地を視察して

開催日時:
2016/03/10(木)~2016/03/11(金)
人数:
広島同友会1名
文責者:
事務局 国広

中同協主催の第4回東日本大震災復興シンポジウムが3月10日~11日に行われました。1日目は被災地視察。全国から参加した133人(広島から2人)は、10日お昼いわき駅前に集合、3台のバスに分乗し出発しました。

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誰もいない、時間の止まった街

時間の止まった、灰色の町
最初に向かったのは、福島第一原発事故の旧警戒区域にあるJヴィレッジ。サッカーのトレーニング施設として、東京電力が97年につくり福島県に寄贈したもので、原発事故処理と復興の拠点になっていました。そこで、東京電力の副社長で福島復興本部のトップの方から、復興への取組みを聞きました。現場では7千人の方々が復興に努力されており、責任をとる姿勢を伝えようというお話でした。一方、「日本の原発は絶対事故をおこさないと嘘をついた。地獄におちても仕方がない」との心情も吐露されました。しかし、今後原発を経営上どうするのかについては触れられず、県の内外に今なお10万人の避難を余儀なくされている福島県の皆さんはこの話をどう受けとめられたのか、複雑な思いでJヴィレッジを後にしました。
バスは国道6号線を北上。約20kmにわたって、避難指示区域が続きます。不思議な光景でした。住宅や店舗、車などはあるのに誰もいない、時間の止まった灰色の世界です。6号線の枝道はすべて、通行止めのバリケードがはりめぐらされ、誰も入ることが許されません。福島第一原発を通り過ぎる頃、線量計は急上昇、車内は沈黙しました。
第一原発のある大熊町の隣の浪江町に入りました。海側の一帯は津波によって流され、ほとんど元の姿はわかりません。唯一、残っているのは建物の基礎ですが、これは将来帰ることが許された時、土地の境界がわかるよう残してあるとのことでした。

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避難指示区域で津波に流された地域

浪江町役場は居住制限区域にありますが、将来町民が帰還を許されたときのために、いち早く一部の業務を再開していました。避難指示解除後の住民の帰還意向は、「すぐに・いずれ戻りたいと考えている」が18%、「まだ判断がつかない」が32%、「戻らないと決めている」が48%となっているそうです。半数近い方が故郷に帰らないことを決めていることが大きな問題です。浪江町役場前で、復興まちづくりのNPOの代表の方(花屋さん)が「今後どうしていいかわからない人も多い中、まず働く場所をつくりたいので、中小企業が元気になる町づくりをしたい」とのお話が印象に残りました。
道路の両側に積み上げられた行き場のない放射能汚染土、いまだ避難生活が続く仮設団地などを見ながら、車内で地元の会員から、「避難地域でないところも、建設・土木・不動産の仕事は被災前の5~10倍にふくれている。現場で働いている人は多いが、女性や子どもは少ない。犯罪率は高くなり、町の雰囲気は一変した」などの話をお聞きしました。福島県の海沿いの町は、原発の交付金などの高収入があり、そうでない町に比べ豊かだったそうです。しかし、今は原発によって苦しめられている、そういう姿を目の当たりにした視察でした。

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浪江町役場前で復興の現実を聞く

二度と起こさせない
2日目は、仙台市でシンポジウムと復興慰霊式が行われました。シンポジウムは、大学の先生の基調講演の後、被災三県(岩手・宮城・福島)から復興へ向けての実践報告、慰霊式では全員で黙とうをささげた後、鋤柄会長の式辞、シンポジウムアピールと続きました。広浜幹事長は2日間を振り返って次のようにまとめました。
「昨日、中同協相談役の赤石義博さんが亡くなられました。人類の根源的な願いは『生きる・暮らしを守る・人間らしく生きる』ことにあると赤石さんは説かれました。それが損なわれている現実を見た私たちは二度とこのようなことを起こさせてはいけないし、起してもいけないことを託されたように思います。被災直後、現金のなかった被災会員に義援金を現金で配り本当に助かったと言われた同友会や大手スーパーが逃げ出す中で地域の生活を守った会員のスーパーなど、同友会がなればこの地域はなかったかもしれません。同友会会員のように豊富な学びの材料に恵まれた人たちはそんなにいません。そのことを自覚し、使命を果たしていきましょう」。