⑧第7分科会「青年経営者の可能性 ~自ら変わり見えてきた未来~」
報告者 ㈱堀内造園 代表取締役 堀内 竜介 氏(東広島支部)
夢は一流の職人
㈱堀内造園は、堀内農園として父が始めました。製薬会社の営業をしていた父がシクラメンを見て感動し、起業したのです。会社の事務所は家の玄関の横の部屋で母も叔父もいる家族経営でした。私は、友達に怪我を負わせるようなわんぱく小僧でしたが、家の横の道具置き場が遊び場で、自分で遊ぶおもちゃをつくっていました。作ったものがほめられると、うれしかったのを覚えています。
昭和60年に㈲堀内造園となり、本社を賀茂郡豊栄町から東広島市へ移転。公共工事に参入しました。これを機に1500万円ほどの売上が4000万円まであがり、5年後には1億円を超えました。急速に発展したのは、東広島市の発展の波に乗ったからでした。
私は関東でフリーターをしていましたが、23歳の時に父から「帰ってこい」という電話があり、平成11年に入社しました。
この仕事が好きでもなく、最初は迷いながら仕事をしていましたが、お客様の喜ぶ姿を見て、この仕事が好きになりました。
その頃、会員だった叔父に連れられて、初めて同友会に参加しました。何も分からない、会員はみんな年上、しかも経営に関する話、結局、興味が持てず、足が遠のきました。
それでも、この頃に一流の職人になりたいという夢を持つようになりました。
転機は突然に
27歳の時、父が胃がんになりました。会社のことより、家族として、父が亡くなったらどうなるのか、母は一人でどうなるのか、そんなことを考えていました。
逆に、会社は叔父が専務、営業部長(取締役)、ベテランの事務の女性がいましたので、心配しませんでした。
しかし、ワンマン社長がいなくなると社内がグダグダになり、お客様のクレームにつながるようになりました。やがてお互いの悪口まで。このときは、私は何もできませんでしたが、半年後、父の復帰と共に問題は解決しました。
しかし、このことで、私の中にモヤモヤが残りました。自分は一流の職人をめざしていいのか?自分は一流の職人になりたいけど、会社を守れる存在になりたい、という想いが芽生えました。
同友会で学んだつもり
このことで、同友会参加するようになりました。参加するようになると、自分の会社を客観的に見るようなりました。
それまで私は、社長がワンマンだけど業績は右肩上がり。利益も出ていて財務状況は極めて良好。工事・営業・事務各部門に能力あるベテラン社員がいる。有資格者もたくさんいる。造園業界としてまだまだ仕事がある、とわが社を良く見ていました。
しかし、同友会で勉強すると見方が変わりました。小さなことまですべて社長が采配している。社員の主体性はまったくない。今に注力して、将来のことは考えていない。能力あるベテランのもと、若い社員は育っていない。若い人を採用しても続かない。資格は取ることで満足している。技術を磨くことに注力しない。造園の仕事も業界の波に乗っているだけで、先が見えていることに気づいていない。
同友会で学んだこと実践したいと思いました。社長に「ワンマン」だとか、年上の社員にあれこれ言っても何も聞いてくれません。挙げ句には「お前なに言ようるんか、やめてしまえ、お前を認めていない」とまで言われました。とても悔しかったです。
同友会の先輩に相談しました。先輩は、「認められたいんなら、会社の中でこれだけは誰にも負けないというものを一つつくるか、この仕事に関してはお前がいないと成立しない、という秀でたものをひとつつくりなさい」というアドバイスでした。
すぐに実践するのですが、間違ったまま、実践を始めてしまいました。
勘違いな実践
優秀な社員を採用して認められたいと考え、以前一緒に仕事をしたゼネコンにいた社員を採用しました。
入社してすぐに会社が変わりました。造園が主な会社でしたが、外構、土木、建築まで幅広い仕事ができるようになりました。宅地造成まで行いました。「堀内造園さんはすごいね、こんな仕事もできるん」と声もかけられました。
認められたいという思いから、大手ハウスメーカーの協力会にも入りました。その結果、売上が3億円を越えるまでになりました。これで、自分も認めてもらえるだろうと考えていましたが、まったく上手くいきませんでした。
ゼネコンから入社した社員は特別待遇です。朝礼も免除、すぐに現場へいっていいことにしていました。結果、会社は真っ二つに割れてしまいました。造園をやってきたベテラン社員はこの社員をすごく嫌いました。険悪な状態です。私があたふたしながら中を取り持っていましたが、結局、退社してしまいました。
その後、能力のある社員の退社が続きました。専務の叔父、営業部長、期待の若手、ベテラン事務員、もう一人の事務員も退社し事務員がゼロになりました。
いままでできていた仕事ができなくなりました。来る仕事を断る状況が続きました。私は現場から引き継ぎなしで営業部長をすることになりました。営業が分からず、同業社に教えてもらうような恥ずかしいこともありました。社員が一番つらいめをしていると分かりました。それから新しい組織をつくりなおすのですが、経験のない社員を部長や課長にあてはめていました。本当に申し訳ないと思いました。不満もいわず頑張ってくれた社員に心から感謝しています。
試練は続く
社長が再び病気で倒れました。今度は精神的な病で思うように面会することができませんでした。そんな中で事件が起きました。
ハウスメーカーの現場で仕事をしていた社員から「現場監督に樹木で殴られた。今から病院に行く」という電話があり、飛んでいきました。すぐに現場監督と話をしましたが、監督は、「彼は自分で怪我をした」というのです。
「やった」「やられた」の押し問答をしましたが、社員の様子が気になり、その日は話途中で分かれました。
大きな決断に迫られました。社員を信じるか、ハウスメーカーの監督を信じるか。当時、ハウスメーカーからの仕事は売上の4割でした。
ハウスメーカーに乗り込みました。最初は若い社員が対応しましたが、役員が増え始め1対6という状況になりました。最終的に言われたことは、「彼とはすでに話がついた。もう話をほじくるな」ということでした。
社員に連絡をしてみると、「もうこの話は解決しました。治療代ももらったからいいです」というのです。そして、その社員は間もなく退社しました。もやもやしたまま終わったのですが、自分自身が決断して行動したという経験は、その後につながるものとなりました。
社長が退院し仕事に復帰しました。そして「そろそろお前が社長をしないさい。まかせる」と言われました。いきなりの事業継承でした。正式には、36歳の誕生日に社長に就任しました。
自分自身の経営の原点とは
同友会に入って10年目。経営指針を見直す中で、利益率の低いハウスメーカーの仕事を辞める決意がつくなど、よい契機になりました。
その中で、経営の原点を考えるようになりました。後継者の一番の弱点です。父にとってはシクラメンでした。自分にとっては何か、半年ほど考えました。すると幼少期の自分が教えてくれました。ものをつくって喜んでもらうこと、それが自分の原点だと気づきました。そして、もう一つの喜びが芽生えてきました。私自身が職人としてした仕事をお客様に喜んでもらうより、社員がした仕事に対して感謝の言葉をお客様から直接聞かせてもらうことがうれしいと素直に思えるようになったのです。ようやく自分の役割が見えてきたと思いました。
技術者を育てたい。喜びの輪を広げたい。必要とされる会社にしたい。覚悟は決まりました。今後も一層、邁進していきます。