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2016.01.06

【同友ひろしま12月号~経営フォーラム特集】①基調講演「空想の翼で駆け現実の山野を往かん~故郷 石見銀山で起業し、小さな世界企業へ~」講師:中村ブレイス㈱ 代表取締役 中村 俊郎 氏

中村俊郎氏

【講師プロフィール】
中村俊郎氏 中村ブレイス株式会社 代表取締役

1948年、島根県大田市大森町生まれ。
島根県立大田高校を卒業後、京都の義肢製作所に入社。
アメリカに渡り、カルフォルニア大学(UCLA)メディカルスクールなどで最先端の義肢装具の製作技術を学ぶ。
1974年、故郷の島根県大田市大森町で、中村ブレイスを創業し、義肢装具、人工乳房ビビファイなどを製造・販売。

2007年ものづくり日本大賞特別賞、2008年渋沢栄一賞、2010年「メセナアワード2010」メセナ大賞、同年毎日国際交流賞、などを受賞。
元島根県教育委員会委員長(5期)、元国立大学法人島根大学客員教授、国際義肢装具連盟日本代表、文部科学省 文化審議会専門委員(世界文化遺産・無形文化遺産部会)などの役職をつとめる。

【会社概要】
創業1974年12月 資本金2,000万円 年商10億円 社員数80名
事業内容 義肢装具、人工乳房、人工補正具等の製造販売
ホームページ http://www.nakamura-brace.co.jp/

人口400人の町で起業

 本日はお招きいただきありがとうございます。この会場は熱気があり、新しい出会いを嬉しく思います。
 創業して41年になります。
 私は、アメリカから帰ってきて、ゴーストタウン化した生まれ故郷で起業しました。島根県大田市大森町は、石見銀山のある町ですが、人口400人の町です。
 明治生まれの両親は、町を守ろう、若者を育てようとしましたが、現実には過疎化が進み、ゴーストタウンと言われるようになりました。兄と姉は、こんな町には住めないと言って出て行きました。私は5人兄弟の末っ子でしたが、生まれ育った大森が好きで、ここで起業しました。

父の言葉で希望を抱く

 なぜかなと考えますと、父は、歴史はあるが死に体になった家の生まれで、役場の三役の一人として、この町が発展することを願っていました。
 石見銀山は、江戸時代前期には日本最大の産出量を誇り、世界で流通する銀の3分の1を占めた時期もあったと言われます。
 父が私に「東方見聞録」のマルコ・ポーロの話をしてくれました。「マルコ・ポーロとあわせてこの石見銀山の町を考えていくと面白いんだがな」。世界を語る父の言葉が希望を与えてくれました。
 この町はさびれているが、希望を持とう、世界を見たい、冒険をしたいという気持ちが湧き上がっていました。私は不器用な人間で、いまだにその火が消えないんです。
 父は、「俊郎の歩みは黙々と小さき歩みでカタツムリみたいだな。だけどお前は根性がある」、「お前は実業家が向いてるんじゃないか」と言葉で支えてくれました。

起業を支えてくれた妻

 昭和49年12月に中村ブレイスの看板をあげました。お金もない、仕事のあてもない起業で、大変な決断でした。
 そういう私を支えてくれたのが妻です。妻の支えなしには今の中村ブレイスはないと思います。
 妻は当時、岡山県の玉野で幼稚園の先生をしており、松江に祭りの見学に来ていました。私たちはそこで出会い、結婚したいとなった時、妻の母親が「中村さんを支えてあげなさい」と結婚を奨励してくれたんです。何もない、ゴーストタウンの男、しかも明治生まれの両親が二人いる、そんなところへ行けと、ゴーサインを出してくれました。
 妻の母親は広島県美土里町の出身で、この母親の一言がなければ今日の私はない、こうしてみなさんの前でお話しすることもない。広島県のみなさんにお話したいのはそれなんです。

ゼロからのスタート

 お金がないから、自宅の前に築200年の納屋があったので、それを改装してスタートしました。
 ひと月たって父に「今月は売上があったか」と聞かれ、シュンとなりました。売り上げは事実上ゼロでした。
 一人だけ、土建業をやっていた伯父がコルセットを注文してくれました。私の実情を察して、いわばお祝いで注文してくれた売上が12,300円だったんです。
 起業して12~3年経ったころ、世界の特許が取れ、お金がなくても山の中でも、やればできるんじゃないかなという気持ちになりかけた時に、作家の松本清張先生が石見銀山の取材に来られました。
 私どもの工房を訪ねてくださって、こんな喫茶店もパチンコ屋もないような町で、若者が一心不乱にモノづくりをやっている、しかも義手義足とか手指とか珍しい仕事。よく生活ができるなぁ、と好意的に喜んでくださいました。
 その時に松本清張先生が色紙に書いてくださったのが、「空想の翼で駆け現実の山野を往かん」という言葉。今から28年前の思い出です。

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精神的な励ましが大事

 そういうふうに、みなさんからいただいたものは金銭的なものではありません。
 起業する時に、金融機関や行政の応援もありがたいことです。ですが、どん底状態の、明日どうしよう、ひょっとしたら・・・という時に、優しい言葉をかけてくれて、勇気を与えてくれる人。
 君は、将来、大丈夫だよ、あなたならできるよ、今はしんどいかもしれんけど、明日は必ず光が射すよ。
 こういう言葉をかけて、心から支援し協力してくださる方、そのおかげで今日があると思っています。

一人の顧客を大切にする

 私たちの仕事は、義手義足といった義肢から、コルセットや保護帽など、約200種類の医療用具を開発しています。中でも、世界で初めてシリコーン製の医療用具を作り、特許を取得しています。また、メディカルアートという、シリコーンを使った本物そっくりの人工乳房や手、鼻、耳などの製品を作っています。
 20万人に1人、10万人に1人、1万人に1人の顧客と出会って、そういう人を大切にしたことが、いまは世界各地から集まってきていただけるようになりました。
 決して大企業ではありません。一人の顧客、一人の患者さんとの出会いなんです。

スポーツ選手の義手に挑戦

 今年の春、近畿大学の水上競技部から依頼がきました。一ノ瀬メイさんという、生まれつき肘から先のない学生さんのトレーニング用の義手製作の依頼です。
 今までは、手をなくした人、脚をなくした人の義手や義足を作ってあげていました。
 時代が変わり、生まれながらに手のない人が、パラリンピックをめざして、世界をめざしてトレーニングし、0.01秒を争う、そのお手伝いをする、新しい挑戦です。
 とはいえ、こういう挑戦には若い力が欠かせません。今回はありがたいことに入社20年になる那須という社員が「やってみましょうか」と言ってくれました。やれと言ったわけではありません。失敗するかもしれません。「どうする?」と投げかけました。

一つの挑戦が多くの人の希望に

 障害は他人事ではありません。今は元気でも、いつ事故や脳出血などで障害が出るかわかりません。
 ところが、高齢になってから義足になったりすると、風呂に入る時は外さないといけない。転倒する危険もある。大変だからシャワーで済まそうか、となります。
 でも、お風呂に入りたい、温泉に入りたい、そういう方々に、今回の挑戦が福音になるかもしれません。
 ビジネスとして、というよりも、多くの人に希望を与えられるんじゃないかと思って、胸がワクワクしているんです。
 夢がたくさんあって、そのほんの一部しか達成できていません。だから挑戦できるんです。

大切なのはチャレンジ精神

 松本清張先生が「空想の翼で駆け」と言ってくださった。決して技術を教えてくださったわけではありません。
 みなさんも夢をお持ちだと思います。こうしたことをやろう、店をこうしよう、こんな製品をつくろう、と。できないことはないと思うんですね。やる気があれば。すぐにはできないかもしれない。でも、ずっと目指していれば、どこかで出会いがあるかもしれません。
 大切なのはチャレンジ精神ではないかと思います。
 この会は熱気を感じました。熱気を感じる会なんて、そんなにありません。すごいな、私もがんばらないといけない。次にみなさんにお会いする時には、次の挑戦をしている姿をご覧になっていただきたいなと思いました。そういうことの積み重ねなんですね。
 そうやって10年、20年、30年、40年。創業の時、月間売上1万円の会社でしたが、今でも決して売上が多いわけではありません、でも、いま、年間にサポーターとかいろいろな製品を、あの銀山の町で12~3万人の方に作っています。

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全国の患者、同業者に喜んでもらいたい

 義肢装具の業界は全国に500ヶ所くらいあります。5人~20人くらいの小規模で、いい義肢装具をつくって、地域の患者さんを守ろうとがんばっておられます。
 私は30年前、シリコーンゴムの製品を開発し、世界の特許を取得しました。山の中で医療用具で世界特許というのは珍しいことでした。その時に私は37~8歳で、これで大企業になれるんじゃないかと思ったこともありました。
 ですけど、私の仕事は障害をお持ちの方に提供する仕事なんです。送って、使って、良かった、じゃあ次はリフォーム、というわけには簡単にはいきません。病院の先生の指示があって治療に使うものですから、売ればいいというものじゃない。あとをフォローしなければいけません。石見銀山の僻地からあちこちへ行くわけにはいきません。
 私がアメリカに勉強に行ったころ、日本では義肢装具の業界はあまり人に知られない地味な業界で、少人数の工房で長時間働いていました。業界全体を良くしたいという目標を持ちました。
 それで、全国の患者さんにも同業者にも喜んでもらえるように、独占しないで委託販売という形をとってはどうかと考えました。

中村ブレイスの生き方

 それが最初はなかなか理解してもらえませんで、何をえらそうなことを言ってるかと、島根県の山奥から東京や大阪に売り込んで、領地を荒らすんじゃないかと危惧されました。それは10年20年の間にだいぶ解消されました。
 新しいものを作るという基本的なものを持っていることによって、あそこに注文すれば安心だということで、全国、世界から注文が入るようになってきました。
 創業した時にゼロだったことを忘れない。それから、世界に目を向ける。まだまだ発展途上国はありますから、私たちがやらなければならないことは、いっぱいあります。
 理想論かもしれませんが、そういう生き方もあっていいんじゃないかと思っています。

世界に目を向けると

 医療用具は値段が高いんですね。保険で返ってくるにしても、病院の処方で10万、20万、義足なんか100万、200万することもあります。
 保険や補助がある国はまだいいです。発展途上国の人が脚を失くしたとか、そういった人たちがどんな苦労をしてるかなと気になっておりまして、地球市民の一人として、自分たちの仕事で、自分たちの技能、知恵でできることはないかと考えているところです。

竹を使った義足を開発

 フィリピンのNGOから、先天性の四肢障害で義足を必要とするアンヘリト君(12歳)を助けて欲しい、という手紙が届きました。
 そのNGOは二年前、寄付を集めて5万円の義足をプレゼントしました。ところが、成長期のアンヘリト君には、その義足がすぐに合わなくなり、使えなくなってしまったのです。新しい義足が必要となりましたが、アンヘリト君の家庭は月収が1万円くらいで、とても買うことはできません。貧しい人たちが必要としているのは、安価で手に入りやすい義足なのです。
 現地で家屋や工芸品などに竹がふんだんに使われていることに気がつき、フィリピンの少年のために、現地の職人の竹細工の技能を生かして、安く手に入る義足を作ることができました。

自分たちの仕事が最高だと思ってはいけない

 パーツを持って行ってあげるのも一つの方法です。でも、自分たちの仕事が最高だと思ってはいけないと思っています。現地の素晴らしい文化、伝統があって、知恵もある。
 あれ、竹があるじゃないかと思ったのですが、会社で社員に反対され、じゃあ自分で行くしかないかということになりました。
 忙しい時だったので、家族は倒れるんじゃないかと心配しました。でも、自分がやらなきゃいけない時は動かなきゃいけない。その時の判断は自分がするものであって、人が言ったからどうとかじゃないと思うんです。

お世話になった方々にお返しを

 石見銀山を世界遺産に登録する時に、島根県の教育委員長をしておりました。大森を守ることは父親の願いでしたので、なんとしてもこれはがんばらなきゃいけない。ところが、石見銀山はだめらしいという噂が届いてきました。夢中でした。
 世界遺産登録の時は、8年前になりますが、日本の代表の一人として参加しました。最後の最後で逆転劇となり、頭の中が真っ白になり、感動しました。
 あのゴーストタウンが世界に認められた。これは、私たちだけではなく、先人の尊い苦労、歴史、文化庁、政府、ユネスコ、市民のみなさん、総合力の賜物です。県民の一人、地域の一人として、中村ブレイスも地域に返していかないといけない。
 障害のある方にはもちろん、自分たちができる範囲でお世話になった方々にお返ししたい。今日もそういうつもりで話しております。

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希望を持って、時間がかかっても

 創業時、ひと月1万円だった売上が次の月に2万円になりと、苦しい時期が続きました。でも希望を持ってやっていました。
 一人の方が喜んでくだされば、必ず伝わっていく。社員たちも一所懸命やってくれるはず。
 一人の社員を育てるのに10年以上かかります。人によっては30年かかります。ですけど、一人の若者を育てる。そして希望を語り合う。今できなくても、お孫さんに語ることができるかもしらん。そういうものを、みなさん、お持ちなんですね。

空想の翼で駆け、現実の山野を往かん

 石見銀山の街並みの家の修復なんかを一軒一軒やってきました。いま、五〇軒目を修復しております。補助金はもらっていません。全部自力です。もらっているのは、みなさんから勇気をもらって、それを肥やしにしています。
 最近、静かだった町にベビーラッシュが起こっています。人口四〇〇人の町に、この一年半で子どもが一三~四人誕生しています。以前、家族からはドン・キホーテじゃないかと言われました。それがやっと若い方が全国から来てくれるようになりました。
 みなさんからもらったエールを、社員とともにこれから少しずつお返ししていこうと思っています。
 もしよろしければ石見銀山にお越しください。先般、ドイツ・マイスターのご夫妻が石見銀山でパン屋を立ち上げてくれました。夫婦でマイスターなのは、全国でも唯一のようです。
 空想の翼で駆け、現実の山野を往かんとしております。今後もご支援とご指導、ご協力をいただければと思います。
 ご静聴ありがとうございました。

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