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2024.09.27

「幸子の部屋」Vol.5 シンワ(株) 代表取締役 太原 真弘 氏 の巻

開催日時:
2024/09/20(金)
報告者:
シンワ(株) 代表取締役 太原 真弘 氏
文責者:
ひとつ麦 吉原 幸子

ゲストの方にお着物を着せてインタビューする「幸子の部屋」。このたび中支部から広島西支部のページへ移動しました。
移籍後最初のゲストは、「自ら運を引き寄せる男!」太原真弘氏(広島西支部長・佐伯地区会)!お笑い芸人から一転、社長へ。決して甘くない道のりの中、人として、また社長としてのあり方を問い続け、自ら運を引き寄せた「自然体」の太原さん。他では聞けない「対談」をどうぞ!

本日のお召し物

太原:濃紺の単衣の着物に、墨黒の単衣の羽織。鉄色と白の羽織紐にグレーの半襟を合わせ、軽めの装いとなっています。グレーの帯が髪色とよく似合われます 。

吉原:麻の縞柄の着物に、誉田屋源兵衛の芭蕉糸の半幅帯を合わせました。かるた結びに帯締めを合わせてすっきりまとめています。

まず、今のお仕事に就かれた経緯から伺わせてください

私は20歳で東京の大学に進学し、即、落語研究会に入りました。良い相方に恵まれ22歳でお笑い芸人を目指します。「ボキャブラ天国」にも出演し、これからという時に相方が家督を継ぐため故郷に帰ることで一時、夢を断念。コンビ解消を機に23歳でお笑い芸能事務所に所属。事務所舞台もありましたが、それ以外のオーディションにもチャレンジする忙しい毎日を送っていました。

夢のためとはいえ、そのように挑戦し続けるのは並大抵ではありませんね。

はい。そうしているなか28歳の時大きな転機がきました。私の父は昭和46年に中国シンワ(株)を起こし、ホテル向けのアメニティからスタートし、病院や施設へ商品を販売していたのですが、今後の後継について父を含め私ら3人兄弟とで家族会議をしたんです。

太原さんはご長男だったのですか?

いえ、次男です。ですが長兄は海外勤務しており、実家に戻る様子は全くありませんでした。長女である妹もすでに嫁いだ身なので後継ぎは無理と言う。自分も夢をあきらめたくないと思っていたけれど、後日泣いて電話してくる母親に根負けしました。当時、付き合っていた彼女、今の妻なのですが事情を話したら、快く一緒に広島までついてきてくれることになりました。

奥様、かなり懐が深い方ですね!

一緒についてきてくれると同時に子供を授かっていることも分かったので、自分の「これは運命だ」と思い、結婚と同時に広島で家業を継ぐ決心を新たにしました。

それはめでたくも大きな方向転換でしたね!

28歳で初めて会社組織人として入社したのはいいものの、社内の風当たりはかなり強かったです。当時父の部下はみな叩き上げの営業マン。帰ったばかりの自分は、さぞ頼りなく見えたことでしょう。帰郷まもなく係長、その後1年ごとに課長、部長、専務昇進と5年を経て33歳で社長になりましたが、周りは面白くなかったと思います。

太原さんも、やりにくかったことでしょう。

当時専務になってから自分主導で「幹部会議」が始まりましたが、メンバー皆10歳以上年の離れたベテランばかり。皆いつも私に対し「先代の時は○○だった」と口々に言い、胃潰瘍になるくらい体を壊したこともありました。
ですが、当時の会社業績は右肩上がり。自分が社長としてイニシアチブをとらなくても、幹部たちで実質会社は回っていた。当時の自分には、実力、意思、実績というものがないなか何をすればいいのか分からず、時の流れに身を任せていました。

かなりキツイところを通られましたね。社長という責任ある立場でありながら「チャレンジ」も出来ず、自分を認めてももらえないというのは、誰であっても心身を病む状況だったと思います。

そんな中2008年のリーマンショック。この年前後に先輩たちが定年等でごっそりいなくなり大幅戦力ダウンでしたが、2011年テレビデジタル化が追い風となり、何とか自分たち若い力で業績復活をとげることができました。

ようやく太原さんの会社になってきたのですね。

いえ、実はそうではありませんでした。僕は自分でも気づかないうちに、取り返しがつかない大きな過ちを犯していました。

一体どういうことでしょうか?

詳しくはお話しできませんが、売上上昇をいいことに、振り返らず一人突っ走り続け、社員と向き合うことを疎かにしてきたせいで、気づけば危機的なほど私と社員の気持ちが離れた状態になっていたのです。そんな時、ある社員から、「社長、これから会社をどうしていきたいのですか?」と問われ、ここに至ってようやくハッとした次第です。 恥ずかしながら、40過ぎて初めて自分自身を見つめ直し、己の気持ちと向き合いました。結果として、業務を幹部丸任せにし、現場社員の気持ちに気づいてやれず、退職者を多く出してしまった当時の自分の組織運営を今も悔やんでいます。

その経験を通して、太原さんはどのような決心をされましたか?

「周りと共に歩み、自分で自分の会社のハンドルを握る」と決めました。この10年、周りや同友会に教えていただきながら、「紡ぐ」という言葉をいま大切に思っています。経糸と緯糸があって、はじめて強固な布が形成されます。これまでは独りよがりで人の心の動きに注目しておらず、寄り添うことが出来ていなかったので、これからは社員の気持ちに「寄り添う」ことで皆が自分の気持ちを素直に表現でき「自然体」でありつつ、私の定めた経の糸に、色とりどりの皆の緯の糸を織りなせるような環境作りをしていこうと決めました。

そのために具体的に行われたことはありますか?

まず役員呼称をやめ「課長」「部長」「社長」という名称を無くしました。 ですが社員から「社長、『たはらさん』は奥さんもおられて、2人ですので…」との声があり「ではしょうがなく、あだ名ね」ということで「社長」の呼び名だけ残しました(笑)

大きな変化ですね。他にも組織改革のために取り入れた方針はありますか?

自然体で仕事が出来るよう、社内にリラックスできる音楽を常時流し、私語を推奨しました。また気負うことなく良心と親切心を発揮できるよう、事業理念を「ひとときのここちよさをすべてのひとに」と、ひらがな表記に変更しました。社員には「相手によかれ」と思うことをしてください、と言っています。もし良心がうまく表現しきれず誤解を受けたときは、僕が社長として頭を下げます。

新しい風が吹くように、社内の雰囲気も大きく変わったことでしょう。この改革による効果について教えてください。

社員の気持ちが結束しました。東日本大震災の時もコロナ禍も、退職者はほぼありませんでした。8年前の妻の入社以来、女性社員が増え、いま13名中5名が女性。そこから嬉しいことに、オリジナル商品が生まれました!

それは素晴らしい効果ですね!

コロナ禍の補助金でもって、女性社員たちが試行錯誤しながら開発した、広島県産レモンを配合したハンドクリームが最初の商品となりました。バスタブレット、フェイスマスクと続き、現在、第四弾を準備中です。ここから商品を増やし「メーカー」になりたいと夢を膨らませています。

羨ましい限りです。太原さんの場合、自ら道を切り拓くというより、強く願いながら進むうちに道の方が拡がってくれたように感じます。

僕も自分のことを「運がいい」と思っています。若い時は「自分の力で何とかなる」と思って東京へ出ました。けれど30年かかり「そうではない」と知りました。広島に帰ったばかりの頃、自分は弱い立場にありました。周囲に支えられ、今の自分があります。誰でも支えてくれる人がいれば生きてゆけるのです。「助けてほしい」と言う人があれば「よし、まかせとけ」と言える人間でありたいと思っています。逆に「レッテルや思い込み、既成概念や不自然さ」こうしたものは注意して遠ざけようとしています。

太原さんは自分から他者のために尽くし、自然なコミュニケーションを妨げるものを避けることで、ご自身に良い流れを引き寄せておられるようです。私も見習わせて頂きます。

最後に、これから10年のビジョンについて聞かせください。

実は裏山に地域の人が集まりやすい場所を作りたいと思っています。今そこはまだ雑草だらけですが、家庭菜園したり、外でたき火しながらPC業務をしたり、近隣の人もマルシェや非常時の集会所として活用できる、経済的に自立した誰もが寄り添える里山作りを通して、地域に貢献したいと考えています。いますでにレモンの木を植え、養蜂もはじめております。

とても楽しそうな計画ですね!是非、私も参加させてください。はちみつとレモンが一緒にあるなんて、夢のような場所です!

なんだか今日はとてもすっきりしました。こうして自分の気持ちを誰かに話す機会を持つのはいいものですね。

気持ちを誰かに話すことは自分を取り戻す時間でもありますよね。着物も腰を支えて心身をしゃんとさせる効果と共に、肩の力を抜くリラックス効果もあるのですよ。これからも自然体でお過ごし頂くため、是非、着物生活もご検討ください。本日は人生を豊かにする大切な秘訣を教わりました。ありがとうございました。

次はあなたをご訪問するかもしれません。是非お着物で、事業の来し方行く末をお聞かせください。 それではどうぞ、ごきげんよう。